さようなら、世界
インターネットと言う便所に心情と言うゲロを吐く事はそんなに許されませんか。
追悼と言うハナクソをインターネットで見せびらかせてもいいのですか。
あなたはとても苦しい時、インターネットと言う便所に吐くのを我慢しますか。
インターネットと言う便所に救済を求める事をしないと言えますか。
救われない孤独をインターネットと言う便所で紛らわせるのは罪ですか。
ひとは成長するのだろうか。
胎内巡りと言うものがある。
暗い空間を通り、外に出る。それだけだ。
それだけだが、再度妊娠されて出産される事で新たな人生を得る疑似体験になる。
暗闇とは胎内の暗示である。
ありとあらゆる少年は、思春期と言う暗いトンネルを抜けて成長する。
暗い部屋。それは私の部屋か。
暗い部屋。それは私の記憶か。
暗い部屋。母の胎内か。
暗い部屋。映画館、劇場。
映画館や劇場は胎内だろうか。
暗い部屋でひとつの物語を見届けた時、私たちは成長を得るのだろうか。
いや、存在とは単体ではありえないのだ。
劇場と言う胎内から這い出て社会と摩擦する時に存在となる。
新しい私が産まれる。
ならば劇場に行くと言う行為は性交だろうか。
劇場に行くと決めた瞬間が性交だろうか。
とにかく私たちは性交ともって劇場に妊娠され、出産される。
世界と摩擦し、私たちは存在を続ける。
さようなら、劇場。
役者の挨拶はいらない。告知も要らない。折り込みがある。
こんにちは、世界。
新しく出産された私たちは、劇場で過ごした時間分の変化を得ている。
次に私たちがセックスをして胎内に宿される時はいつだろうか。