血花血縄、文学少女。
少女はいつまで文学なのだろうか。
血花血縄はかつて刊行された官能小説がもとの題材だ。
そしてそれを再構成した舞台だ。
私は少なくともそう認識している。
もはや少女は文学では無い。
少なくとも、2010年代の僕らの感覚で言えば少女は文学では無い。
少女は無敵性を失っているのだ。
だから少女は死ぬ。魔法を使えたとしてもだ。
処女性すら無敵では無い現代に於いて、あの”少女”とは一体どんな存在であったのか。
男が、あの女性達の妄想の産物であるとするならば、
少女は、あの女性達の”取り戻せない過去”なのだろうか。
”戻りたい地点”と言い換えてもいいかも知れない。
快楽に対する飽食を再び無から味わう為の願望。
それはならぬと言う葛藤と自死と言う事なのだろうか。
真ん中の白い女はカルマか、それとも自分と言う存在の”臨界点”か。
カルマから解き放たれた女達はどこへ行くのだろうか。
”少女”が女性達の”カルマ”であるなら、真ん中の女は”見ている者のカルマ”だろうか。
吉野翼が我々をどこへ連れて行こうとしたのか。
吉野翼が我々に何を見せようとしたのか。
我々に見る事が出来なかったとするならば、それは我々の失敗か。
それとも吉野翼の失敗か。
舞台に限らず、芸術は社会に紐付けられる事が殆どだろう。
不能の男性と、女性の閉塞。
それらは何を意味するのだろうか。
社会に抗う気力を喪失した男性と、自分の理想像としての男性を喪失した女性?
参政権や雇用均等法が当たり前になった。
しかし、そうは言ってもまだ完全な公平性とは程遠いだろう。
完全な公平性の定義もままならないが、それでもその概念からは遠い。
しかし、女性はそれほど閉塞しているのだろうか。
女性の妄想は、妄念は、理想は、欲望は押し込められているのだろうか。
男性は闘えず、抗えず、愚者、道化に徹して消える存在なのだろうか。
世間は冷たいか。世界はつめたいか。
インターネットが発達した今、あなたを救う言葉は何処にも無いのか。
あなたの妄念、妄想、理想、欲望を受け止めてくれる空間は皆無か。
あなたにとって少女とはどんな存在だろうか。
あなたのカルマはどんな形をしているのだろうか。
あの芝居のカタルシスはどこにあったのだろうか。