月曜日の朝、遊園地に行く途中で。

月曜日の朝、遊園地に行く道すがら読む程度。

血花血縄、文学少女。

少女はいつまで文学なのだろうか。

血花血縄はかつて刊行された官能小説がもとの題材だ。

そしてそれを再構成した舞台だ。

私は少なくともそう認識している。

 

もはや少女は文学では無い。

少なくとも、2010年代の僕らの感覚で言えば少女は文学では無い。

少女は無敵性を失っているのだ。

だから少女は死ぬ。魔法を使えたとしてもだ。

処女性すら無敵では無い現代に於いて、あの”少女”とは一体どんな存在であったのか。

 

男が、あの女性達の妄想の産物であるとするならば、

少女は、あの女性達の”取り戻せない過去”なのだろうか。

”戻りたい地点”と言い換えてもいいかも知れない。

快楽に対する飽食を再び無から味わう為の願望。

それはならぬと言う葛藤と自死と言う事なのだろうか。

真ん中の白い女はカルマか、それとも自分と言う存在の”臨界点”か。

カルマから解き放たれた女達はどこへ行くのだろうか。

 

”少女”が女性達の”カルマ”であるなら、真ん中の女は”見ている者のカルマ”だろうか。

 

吉野翼が我々をどこへ連れて行こうとしたのか。

吉野翼が我々に何を見せようとしたのか。

我々に見る事が出来なかったとするならば、それは我々の失敗か。

それとも吉野翼の失敗か。

 

 

舞台に限らず、芸術は社会に紐付けられる事が殆どだろう。

不能の男性と、女性の閉塞。

それらは何を意味するのだろうか。

社会に抗う気力を喪失した男性と、自分の理想像としての男性を喪失した女性?

 

参政権や雇用均等法が当たり前になった。

しかし、そうは言ってもまだ完全な公平性とは程遠いだろう。

完全な公平性の定義もままならないが、それでもその概念からは遠い。

しかし、女性はそれほど閉塞しているのだろうか。

女性の妄想は、妄念は、理想は、欲望は押し込められているのだろうか。

男性は闘えず、抗えず、愚者、道化に徹して消える存在なのだろうか。

 

世間は冷たいか。世界はつめたいか。

インターネットが発達した今、あなたを救う言葉は何処にも無いのか。

あなたの妄念、妄想、理想、欲望を受け止めてくれる空間は皆無か。

 

あなたにとって少女とはどんな存在だろうか。

あなたのカルマはどんな形をしているのだろうか。

 

あの芝居のカタルシスはどこにあったのだろうか。