月曜日の朝、遊園地に行く途中で。

月曜日の朝、遊園地に行く道すがら読む程度。

灯籠流しの様にタイムラインに流れて行く追悼、血花血縄

さようなら。

大勢が半日も経たずに忘れてしまったでしょう。

さようなら。

私たちはタイムラインに追悼を流してあなたを忘れます。

残酷な私たちの消費。

 

 

駒場東大前アゴラ劇場へお芝居を見に行ってきた。

目黒区だったんだね、アゴラ劇場。

目黒区民のアゴラなのかな、アゴラ劇場。

周りに時間を潰せるお店が無いんだね駒場東大前駅

東大生はどこに行くんだろう。

 

吉野翼企画 岸田理生アバンギャルドフェスティバル2017

平成緊縛官能奇譚 『血花血縄』

stage.corich.jp

結論から言うと、「完成度の高いポップアングラ」でした。

アングラなのにポップで完成度が高いってどうなんだろう?笑

完成度の高いポップなアングラ、と言う事の難しさ。

変化球に逃げない、打ち返されない真っすぐの難しさ。

それは凄い事なんだと思う。

 

真っ赤な縄に縛られた女性達、真っ白い蝋燭とカルマ。

ギターと、二胡(かな?)の音。

綺麗なセットでした(手前の柵?はどうやって自立してたのだろう……?)。



少女が女になる。

Niel Diamondの「Girl, you will be a woman soon」と言う曲を思い出した。

多分、と言うかきっと微塵も関係無い。

少女は女になる。

それは恋では無く、肉体がもたらすどうしても拒否できない変化。

少女は女になる。

少女が、女になる。

 

(個々の妄想や春情に対して)世間の風は冷たい。

(恥ずべきものだ)家の中から出る事が出来ない。

(それでも私と言う)存在も境界も曖昧だ。

 

その中で明確に肉体は変化して少女は女になる。

輪廻の中に溶けて行く。

それは犬神家の話なのだろうか。

母さん、スケキヨです。湖から脚を出す者です。

個人的には苗字を出すの失敗だと思う。

だってどうしても付随するドラマがあるから。

それが道明寺でも花京院でも伊集院でも関係が無い。

母さん、私は。

 

男性性の不能、と言う事は別に驚きでは無い。

それこそ王道のアングラだ。

彼が彼女達にとって共通認識できる存在なのだろうか。

彼は存在しているのだろうか。

不能であるなら死ねばいいのに、と思うけれどどうなのだろう?

彼女達の妄想が具現化した姿なのなら、変化すればいいのに。

男性は彼女達の眷属なのか、彼女達が男性の眷属なのか、

答えは前者なのだろうけど納得の行かなさはある。

女性性の解放なのだろうか。

少女は業から解放されたのだろうか。

彼女は劇場の外に出て、男を見つけて、そして劇場に帰って来る。

 

そうなのだ。

劇場から外に出る、と言う王道の演出なのだ。

吉野翼はこの芝居を通じて何を見せたかったのか。

吉野翼はこの芝居を通じて何を言いたかったのか。

吉野翼はこの芝居を通じてどこへ行こうとしたのか。

 

女性達は解放されるべきであるとするのなら、女性達は縛られているのだろうか。

女性達を縛っているのは誰なのだろうか。

女性達を縛っているのは何なのだろうか。

解放とは何なのだろうか。

生理も満足にやり過ごせない小娘の一喝。

それに打ち消される程度の欲望の為に縛られているのだろうか。

勃起出来ない不能の男性性は小娘にも勝てないのだろうか。

世界は、世間は、何も孕む事が出来ないのだろうか。

気付いた新しい人間から席を立つべきだったのだろうか。

それでも年老いた観客達は貧乏臭さの為に途中退席も出来ない。

その観客達は古い存在なのだろうか。

劇場は子宮なのだろうか。

彼女は帰って来る様に我々も結局は劇場に帰るのか。

眠れる奴隷なのだろうか。

母さん、もう一度私たちを妊娠するのですか。

 

禮!

私たちの人生は王道なのか外道なのか。

その境界も曖昧なままこうして生きている。

本来は秘めておくべき、恥ずべきものを晒しながら生きる。

妄想、春情、倦怠。

禮!

大人になると言う事は、家を出ると言う事は、劇場に残ると言う事は。

私は縛られていますか。

私は縛っていますか。

私の傍に業はありますか。

禮禍。

それはまるで美しい地獄の様でした。

 

もしも無数の蝶が女陰から飛び立つのであれば、それはとても美しいだろう。

それだけは確かな事でした。