月曜日の朝、遊園地に行く途中で。

月曜日の朝、遊園地に行く道すがら読む程度。

営業と言う名の懇願、または哀願

舞台をやります!(どどん)、では無いんです。

君たちは日本マクドナルドでも無いし、フォロワー20000人のツイッタラーでもない。

いつ何処で舞台をやるかよりも、どんな舞台かが知りたいのです。

それはどんな話ですか?

ー聞きたいのは粗筋よりも、あなたがどう思ったかを知りたいんです。

あなたはどんな役ですか?

ー配役ではない。あなたの芝居のどこを見て欲しいですか。

その芝居は見た人にどんな影響を与えますか?

ーメッセージ性がどうとかではなくて、あなたはどうなりましたか?

 それを私が見たら、どんな風になると思いますか。

 それを見た人達とどんな話をしたいと思いますか。

 

企業が新商品を売る時には、基本的に色んな情報を出します。

あの手この手で広告を見た人間の興味を惹こうとします。

そこには、いつどこで売るか。そんな事はあまり目立つ様に書いてない。

そんな事よりもどんな商品か知りたい。

値段だ何だと言うのは二の次です。

私は舞台も同じだと思っています。

 

日頃の営業活動を、まともに就職もした事が無い役者に望むべくもありません。

久しぶりのメールやラインが「舞台やります!見て下さい!」でもいいでしょう。

季節の挨拶も無ければ、こちらの近況を聞こうともしない。

構いません。あなたにとって私はノルマの一つなのでしょう。

 

役者も当然ながら営業職を兼ねておりますので、ノルマを意識するのは当然です。

(業界内でのノルマ制に関する賛否は、今は問題にしていません)

 

ただノルマを意識するあまり、あなたが作り上げた舞台の魅力が伝わらんのです。

あなたがその脚本のどこに感動したのか、どうして見に来て欲しいのか。

払っているコストは時間とお金だけじゃありませんよ。

「行く」と言う気持ちや「見た作品を整理する脳味噌の動き」

と言ったコスト、それらを支払った上で後悔しない覚悟。

それらのコストに値するのかどうか、それを知りたいんです。

 

数千円の価値があります!と言いますが、それを決めるのは私です。

見て損をしたかしないか、決めるのは私です。

そんな事よりも作品の魅力を伝えて下さい。

知りたいのは粗筋じゃない。キャストじゃない。スタッフじゃない。

場所じゃない。日時じゃない。会場の場所じゃない。

とにかくそれがどんな舞台かを知りたい。それが一番なんです。

 

MOTHER2みたいなキャッチコピーを考えろとは言いません。

本当は言いたいです。でも無理でしょ。やらないでしょ。

それなら、少し長くていいから魅力を伝えて欲しい。

見に行きたい、そう思わせて欲しい。

 

なんて、舞台の告知を頂く度に思っております。

我が侭ですかね?そうは思いませんよ。

さようなら、世界

インターネットと言う便所に心情と言うゲロを吐く事はそんなに許されませんか。

追悼と言うハナクソをインターネットで見せびらかせてもいいのですか。

あなたはとても苦しい時、インターネットと言う便所に吐くのを我慢しますか。

インターネットと言う便所に救済を求める事をしないと言えますか。

救われない孤独をインターネットと言う便所で紛らわせるのは罪ですか。

 

ひとは成長するのだろうか。

 

胎内巡りと言うものがある。

暗い空間を通り、外に出る。それだけだ。

それだけだが、再度妊娠されて出産される事で新たな人生を得る疑似体験になる。

暗闇とは胎内の暗示である。

ギルガメッシュ叙事詩でもトンネルを通り抜け、成長する。

ありとあらゆる少年は、思春期と言う暗いトンネルを抜けて成長する。

 

暗い部屋。それは私の部屋か。

暗い部屋。それは私の記憶か。

暗い部屋。母の胎内か。

暗い部屋。映画館、劇場。

 

映画館や劇場は胎内だろうか。
暗い部屋でひとつの物語を見届けた時、私たちは成長を得るのだろうか。

いや、存在とは単体ではありえないのだ。

劇場と言う胎内から這い出て社会と摩擦する時に存在となる。

新しい私が産まれる。

ならば劇場に行くと言う行為は性交だろうか。
劇場に行くと決めた瞬間が性交だろうか。

とにかく私たちは性交ともって劇場に妊娠され、出産される。

世界と摩擦し、私たちは存在を続ける。

 

さようなら、劇場。

役者の挨拶はいらない。告知も要らない。折り込みがある。

こんにちは、世界。

新しく出産された私たちは、劇場で過ごした時間分の変化を得ている。

 

次に私たちがセックスをして胎内に宿される時はいつだろうか。

血花血縄、文学少女。

少女はいつまで文学なのだろうか。

血花血縄はかつて刊行された官能小説がもとの題材だ。

そしてそれを再構成した舞台だ。

私は少なくともそう認識している。

 

もはや少女は文学では無い。

少なくとも、2010年代の僕らの感覚で言えば少女は文学では無い。

少女は無敵性を失っているのだ。

だから少女は死ぬ。魔法を使えたとしてもだ。

処女性すら無敵では無い現代に於いて、あの”少女”とは一体どんな存在であったのか。

 

男が、あの女性達の妄想の産物であるとするならば、

少女は、あの女性達の”取り戻せない過去”なのだろうか。

”戻りたい地点”と言い換えてもいいかも知れない。

快楽に対する飽食を再び無から味わう為の願望。

それはならぬと言う葛藤と自死と言う事なのだろうか。

真ん中の白い女はカルマか、それとも自分と言う存在の”臨界点”か。

カルマから解き放たれた女達はどこへ行くのだろうか。

 

”少女”が女性達の”カルマ”であるなら、真ん中の女は”見ている者のカルマ”だろうか。

 

吉野翼が我々をどこへ連れて行こうとしたのか。

吉野翼が我々に何を見せようとしたのか。

我々に見る事が出来なかったとするならば、それは我々の失敗か。

それとも吉野翼の失敗か。

 

 

舞台に限らず、芸術は社会に紐付けられる事が殆どだろう。

不能の男性と、女性の閉塞。

それらは何を意味するのだろうか。

社会に抗う気力を喪失した男性と、自分の理想像としての男性を喪失した女性?

 

参政権や雇用均等法が当たり前になった。

しかし、そうは言ってもまだ完全な公平性とは程遠いだろう。

完全な公平性の定義もままならないが、それでもその概念からは遠い。

しかし、女性はそれほど閉塞しているのだろうか。

女性の妄想は、妄念は、理想は、欲望は押し込められているのだろうか。

男性は闘えず、抗えず、愚者、道化に徹して消える存在なのだろうか。

 

世間は冷たいか。世界はつめたいか。

インターネットが発達した今、あなたを救う言葉は何処にも無いのか。

あなたの妄念、妄想、理想、欲望を受け止めてくれる空間は皆無か。

 

あなたにとって少女とはどんな存在だろうか。

あなたのカルマはどんな形をしているのだろうか。

 

あの芝居のカタルシスはどこにあったのだろうか。

灯籠流しの様にタイムラインに流れて行く追悼、血花血縄

さようなら。

大勢が半日も経たずに忘れてしまったでしょう。

さようなら。

私たちはタイムラインに追悼を流してあなたを忘れます。

残酷な私たちの消費。

 

 

駒場東大前アゴラ劇場へお芝居を見に行ってきた。

目黒区だったんだね、アゴラ劇場。

目黒区民のアゴラなのかな、アゴラ劇場。

周りに時間を潰せるお店が無いんだね駒場東大前駅

東大生はどこに行くんだろう。

 

吉野翼企画 岸田理生アバンギャルドフェスティバル2017

平成緊縛官能奇譚 『血花血縄』

stage.corich.jp

結論から言うと、「完成度の高いポップアングラ」でした。

アングラなのにポップで完成度が高いってどうなんだろう?笑

完成度の高いポップなアングラ、と言う事の難しさ。

変化球に逃げない、打ち返されない真っすぐの難しさ。

それは凄い事なんだと思う。

 

真っ赤な縄に縛られた女性達、真っ白い蝋燭とカルマ。

ギターと、二胡(かな?)の音。

綺麗なセットでした(手前の柵?はどうやって自立してたのだろう……?)。



少女が女になる。

Niel Diamondの「Girl, you will be a woman soon」と言う曲を思い出した。

多分、と言うかきっと微塵も関係無い。

少女は女になる。

それは恋では無く、肉体がもたらすどうしても拒否できない変化。

少女は女になる。

少女が、女になる。

 

(個々の妄想や春情に対して)世間の風は冷たい。

(恥ずべきものだ)家の中から出る事が出来ない。

(それでも私と言う)存在も境界も曖昧だ。

 

その中で明確に肉体は変化して少女は女になる。

輪廻の中に溶けて行く。

それは犬神家の話なのだろうか。

母さん、スケキヨです。湖から脚を出す者です。

個人的には苗字を出すの失敗だと思う。

だってどうしても付随するドラマがあるから。

それが道明寺でも花京院でも伊集院でも関係が無い。

母さん、私は。

 

男性性の不能、と言う事は別に驚きでは無い。

それこそ王道のアングラだ。

彼が彼女達にとって共通認識できる存在なのだろうか。

彼は存在しているのだろうか。

不能であるなら死ねばいいのに、と思うけれどどうなのだろう?

彼女達の妄想が具現化した姿なのなら、変化すればいいのに。

男性は彼女達の眷属なのか、彼女達が男性の眷属なのか、

答えは前者なのだろうけど納得の行かなさはある。

女性性の解放なのだろうか。

少女は業から解放されたのだろうか。

彼女は劇場の外に出て、男を見つけて、そして劇場に帰って来る。

 

そうなのだ。

劇場から外に出る、と言う王道の演出なのだ。

吉野翼はこの芝居を通じて何を見せたかったのか。

吉野翼はこの芝居を通じて何を言いたかったのか。

吉野翼はこの芝居を通じてどこへ行こうとしたのか。

 

女性達は解放されるべきであるとするのなら、女性達は縛られているのだろうか。

女性達を縛っているのは誰なのだろうか。

女性達を縛っているのは何なのだろうか。

解放とは何なのだろうか。

生理も満足にやり過ごせない小娘の一喝。

それに打ち消される程度の欲望の為に縛られているのだろうか。

勃起出来ない不能の男性性は小娘にも勝てないのだろうか。

世界は、世間は、何も孕む事が出来ないのだろうか。

気付いた新しい人間から席を立つべきだったのだろうか。

それでも年老いた観客達は貧乏臭さの為に途中退席も出来ない。

その観客達は古い存在なのだろうか。

劇場は子宮なのだろうか。

彼女は帰って来る様に我々も結局は劇場に帰るのか。

眠れる奴隷なのだろうか。

母さん、もう一度私たちを妊娠するのですか。

 

禮!

私たちの人生は王道なのか外道なのか。

その境界も曖昧なままこうして生きている。

本来は秘めておくべき、恥ずべきものを晒しながら生きる。

妄想、春情、倦怠。

禮!

大人になると言う事は、家を出ると言う事は、劇場に残ると言う事は。

私は縛られていますか。

私は縛っていますか。

私の傍に業はありますか。

禮禍。

それはまるで美しい地獄の様でした。

 

もしも無数の蝶が女陰から飛び立つのであれば、それはとても美しいだろう。

それだけは確かな事でした。